とぱ日記

飽きる可能性大

ぼくは怒っています!!!自転車に乗ったあのおじさんに!!!!

多くの場合において感情は思考するより先に現れるので、感情を抱いたことは確かであるが、その源や辿った経路が不明である、という事態は往々にして起こる。

 

そんな「どうして、今、僕はこの感情を抱いてるんだ??」という疑問の答えを探すことは、自己分析をする上で結構重要だと考えている。だから僕は、何か強い感情を抱いたときにはなるべくその根源を探るようにしている。

 

たとえとして、先週の木曜日にあったことを話したい。

 

 

 

塾の授業が終わり、先生と適当に進路について話して、やっと窮屈な部屋を出た。不規則なリズムで階段を下りる。今日は一時間目から体育の授業でバスケットボールをした上に、文化祭の準備やら進路相談やらで普段そこまで話さない人と話した。もう時刻は午後9時になろうとしている。疲れるのも当然だ…。

 

やや重たい扉に、腕の力と体重をかけて開いた。僕は解放された気分になり、迷わずまっすぐ家へ帰ろうとした。が、薬局に用事があることを思い出した。ゴキブリを駆除するために、ホウ酸を買ってこようと決めていたのだった。

 

すでに家の方角へ足を踏み出していた僕は、後ろ髪を引っ張られるようにして、ふらふらっと方向を転換した。そのとき、正面から迫ってくる自転車に気づいていなかった。

 

僕のフラフラ方向転換は自転車に乗ったおじさんの不意をついたらしく、危うく衝突するところだった。間一髪ですれ違った直後、おじさんは僕に向かって、「フラフラ歩いてんな!」と吐き捨てて去って行った。

 

イラッ…

 

イライライラッ…

 

なにが「フラフラ歩いてんな!」じゃ。こちとら疲れてるんだからフラフラくらいさせろ!しかも歩道は歩行者優先だぞ!交通ルール知らんのか??

 

と、思った。このとき僕が抱いた感情はいわずもがな、おじさんに対する『怒り』だった。

 

 

ここで話を戻そう。この怒りは、果たしてどこから生まれたのだろうか。人に殴られたときや、友達にゲームを壊された(体験談)ときに怒ることなら理解できる。しかし、上の例は何か性質が違うような気がする。

 

まず、僕はおじさんから何ら実害を被っていない。それに、そもそもの原因が僕のフラフラ歩きで、衝突した場合おじさんがけがをする恐れもあったことを考えると、むしろ怒るべきはおじさんの方なのである。おじさんがあの言葉を発することは、正当だった。

 

では、なぜ僕は怒ったのだろう。これは仮説だが、僕は、その怒りの根源は恐怖だったのではないかと考えている。人間の機能として、恐怖は怒りに変化することがあるのだと思う。

 

恐怖を「命が脅かされたとき」に抱く感情、怒りを「攻撃性を高める」感情、と考えるとわかりやすい。『恐怖が怒りに変化する』とは、つまり、『「命が脅かされたとき」、「攻撃性を高める」』ということである。これは、生存本能に他ならない。

 

あのとき僕は、赤の他人であるおじさんに怒鳴られたことと、自転車に轢かれそうになったことから二重の恐怖を抱いていた。それが怒りにつながったのではないだろうか。

 

ちなみに、すべての恐怖が怒りにつながるとは多分限らない。逃走という種類の生存本能もあるし。専門家ではないので詳しいことはよくわからないが…。

 

正しいかどうかはともかく、自分の感情を理屈で辿れた気がして気分がいい。こういうことはこれからもたま~にやってみようと思う。

 

これは余談だが、恋心なんてものはすべて生殖本能で説明できる。恥ずかしいことではないぞ!人間である以前に生物として、子孫を残したいという欲求はあって当然なのさ!

 

…いや、待てよ。恋心が本当に生殖本能によるものなら、僕は全世界の女性を好きになっていいはずだ。その方が繁殖するDNAとしては好都合だし。

 

やっぱり、恋心が生殖本能によるものだという考えは早とちりなのかもしれない。だって、現に僕は全世界の女性が好きだなんてことになってはいないのだから。

 

 

それならば、僕が、あの子にだけ抱く、この特別な思いの正体は…

 

一体、何なのだろうか

 

 

次回、「とぱす、フラれる。」 デュエルスタンバイ!